観てきましたよ、「落陽のパレルモ」「Asian Winds」。

ネタバレ考慮皆無、植田景子アンチに近い偏った感想になると思われます。
お読みになる方はご注意下さい。


この作品、観劇を重ねても重ねても慣れることなく泣けます。
しかも群衆の層が厚く、場面の構成もしっかりしているので、飽きません。


ですが、「この作品が好きか」と訊かれたならば「好きではない」と答えるでしょう。
「佳作か」と問われれば「佳作ではない」と答えるに違いないのです。
でも私はこの作品を見るために何度も劇場に足を運び、通うことに苦痛を覚えないでしょう。
それどころか、寧ろ自分の意志で「何度も見たい」と思うのです。


それじゃぁやっぱり好きなんじゃないか、とか
それじゃ、ショーがめちゃめちゃ良いの?ってことになると思うのですが、そういうわけでもないのです。




まず、歌劇の座談会から私は植田景子先生にツッコミたくて仕方ありません。



「春野さんは、漂っている雰囲気の役や少し抑えた感じの役が続いていたので」



……漂っている雰囲気の役?
どの役のことでしょう。私には全く理解できません。
ここで、参考までに春野さんの主演作(役)をあげてみましょう。


「あかねさす紫の花」 中大兄皇子
エリザベート」   トート
「不滅の棘」     エロール
「野風の笛」     花井主水正
琥珀色の雨にぬれて」クロード
「天使の季節」    ギスターブ・ペスカトーレ
「ジャワの踊り子」  アディナン
「LaEsperanza」    カルロス
「天の鼓」      虹人
マラケシュ」    リュドヴィーク
「IGotMusic」     オサダくん



……漂っている役?
中大兄、却下(笑)エロール、普通の人間じゃないけど漂ってなんかいないので却下。
主水…まっすぐ信念を持って生きているので却下。クロードもギスターブもアディナンもカルロスも却下。
虹人…ゼウスは漂うというより神出鬼没(爆)(っていうか神だし)
そして漂うように「死」を象徴したトート。

…でも別に漂ってる雰囲気の役を宛書されたわけではなく、演じたらそういう個性が出たということであって、別に漂っている「役」ではなかったのでは。


そして、少し抑えた役??

抑えることを知らない虹人と、
抑えることでしかイヴェットへの愛を表現できなかったリュドヴィークと。
リュドヴィークは抑圧的すぎてストイックすぎて「すこし抑えた」なんて表現にはおさまりませんし、
カルロスは抑えてましたっけ?いや、そんなこともなく、明るく健康的な役だったと記憶しております。(笑)


…景子先生は本当に春野さんの舞台を観た事があるんでしょうか。
疑問です。




では、作品について、まず一点。


主人公のヴィットリオとアンリエッタが一目惚れの設定なのですが、その説得力が弱い。
一目惚れの演技はしています。そこはかとなく。さりげなく。(それが景子クオリティ)
出会った瞬間から目線は外しません。見つめあってます。
さらに、挨拶で手を取ってキスしてどちらともなく手を離しがたくなっていたり…


舞台を観ていれば、ヴィットリオとアンリエッタが「一目惚れ」なのは理解できるんですよ。
でも頭で理解出来たからといって、説得力が出るというものではありません。
景子先生はそこらへんの読みが甘いのです。
生徒を細やかに演技指導しても、どうにもならない事があることに気付いていないのでしょうか。


ふーちゃんに足りないものは一目惚れされるに相応しいオーラ。
美醜ではありません。
中国の貴妃のふーちゃんはとても綺麗だと思いますし。
ライトが当たった瞬間、パッと華やぐオーラ。
観客を惹きつけて離さない眩さ。
それは外見の美醜によって差が出るものではなく、
むしろ、役者の剥き出しにした内面がライトに照らされ輝くのではないかと思われます。



  モラヴィアからパリに出てきたリュドヴィークが
  ムーランルージュで歌い踊るイヴェットに初めて出会い
  すぐに「一目惚れ」なのだとわかったあの瞬間を思い出す。


  リュドヴィークが一目見て惹きつけられた理由が、大女優イヴェットの華やかさなのであれば
  芝居の中で剥き出しになるイヴェットの脆さや弱さ、幼さは二人の愛の中で意味を成さなくなってしまう。


  だから最初から内に秘めたるエネルギーに魂同志が惹かれあうのではないかと。


  イヴェットが薄汚い格好のリュドヴィークに惹かれたのも、見た目や外見は関係ないのだと暗に示しているように。



今回のヴィットリオとアンリエッタが一目惚れなのだと理解しています。
アンリエッタを見た瞬間、目線を離さないヴィットリオ。
そしてその視線に惹かれつつも捕らわれることに途惑うアンリエッタ。

…でもアンリエッタにそこまでの強烈な光はなく、
ヴィットリオには言うまでもなく(そういったオーラは)あるわけで、
ただこれまでと違い、
春野さんが「リュドヴィーク」「コンサート」を経て「不動の包容力」を確立した事です。


一目惚れの設定に共感できないにしろ、それでも愛し合う姿に嘘臭さを感じることはなかったし、
ラブシーンもまるで絵画のように美しく上品に見せていたのも良かったと思います。
   生々しさやいやらしさが強調されるようなラブシーンは好みではないので…。



そしてもう一点。
景子先生の書く主な登場人物の人格破綻…。



筋は通ってます。
とりあえず人物の設定、ストーリーの流れ、オチまでをきっちり繋げ、
さらに場面毎の盛り上げ方や演出も考えて洗練された舞台。


抜けどころのない完成された舞台、に一見見えることは見えます。



ツッコミどころ満載の児玉作品や小池作品と違い、脚本上、筋は通しきるのが景子作品。



でもその為にさりげなく人格破綻しているキャラクター。


例えば。
ニコラ
→ペッペが撃たれて、ニコラが怒る。仲間達も不満が爆発する。

ヴィットリオ
→ペッペが撃たれる、社会的には軍側、でも心はニコラ達側にいる。=理不尽さに思い悩む(はず)
 (同時進行)
 アンリエッタと引き裂かれる。会いに行く。結ばれる。



ニコラが死んで、人種差別に対する憤りを持ちつつも愛に突っ走り気味…
しかも「死んだものは帰らない」って、母親を失ったばかりの人にかける慰めの言葉ですか?
優しさの欠片もない慰めの言葉……



景子先生はこのヴィットリオをどういう人物に書きたかったのでしょうか。
場面場面でいいものを見せてくれているのに(お母さんとのエピソードはロザリオ込みで涙腺ツボ刺激してくれますが)
「強い子になるのよ」→「軍隊」っていうのはわかります、わかります。
すごく心の優しい聡明な子供だったというのもわかります。わかります。
強く聡明な青年に育って、村でも皆に愛されて、軍隊でも信頼も厚く、貴族の心も惹きつける魅力的な人なのだと言うのもわかります。


…でも、その聡明さ、誠実さは脚本上にほとんど描かれてはいない。生徒のオーラに頼りきっているだけ。



ニコラのぶっきらぼうな優しさも、マチルダと惹かれ合う瞬間も、ストーリーの中で意味を成していません。
成していないならただの見せ場で流してしまう大らかさが景子作品にはないのです。
(設定だけ見れば、あの後マチルダが誘拐されたことによって婚約が破談になってしまったとか、
  ※だからアンリエッタが家を継ぐ為に貴族と結婚しなければと決意する結果になったのだとか繋げている)


その大らかさがないからこそ、逆に細かい粗が気になってしまうのです。



ただ、実際は、
オサさんの軍服姿は眼福至福だし、
好きな場面や涙腺連続直撃攻撃も熱すぎて震えるような台詞も、甘過ぎてこそばゆい台詞もツボにくるので
見るのは楽しいです。
何度でも見たいです。



ショーの感想はまた後日。
ショーも好きです。つっこみどころは満載で、言いたいことは山ほどありますが。